「上之山幸代先生へ
前イグアス日本語学校校長
日本国外務大臣賞授与 堤 和子
先生が、パラグアイにJICA派遣の開発青年として赴任されたのは、1988年からの3年間でした。当時、ここイグアスの地は、開拓生活からぬけだしつつあったとはいえ、まだ舗装されていない道はテラロッサの赤土で、雨がふると靴に土がくっついて、子どもたちは、「はだしで歩いたほうがずっと早いよ。」と言わんばかりに、かけあしで学校を飛び出していきました。そんなかわいい小学生や、時々授業を抜け出す生意気な中学生がいるイグアス日本語学校に、上之山先生は赴任してこられたのです。
昼礼は、太陽が真上から照り付ける校庭でしていましたから、ここで帽子は生活必需品でした。子供たちは、野球帽や白い日除け帽をかぶっていましたが、先生の帽子はといえば、日本の農家のおばさん方がよくかぶる花模様のある大きいつばのそれで、首から肩まで日があたらないように重装備しておられました。私たちは初めてそれを見た時、正直、あっけにとられてしまいました。学校の先生が、そんな帽子をかぶるのを今まで見たことがなかったものですから。先生は3年間その帽子をかぶっておられたので、いつの間にかイグアスの赤土と強い日差しになじんで、当たり前の風景になっていきました。
さて、先生は特別多くを語る方ではありませんでした。職員室でもご自分から積極的に意見を述べることはあまりありませんでしたが、じきに先生の指導力のすばらしさを知ることになりました。
それは、先生がJICAの用事で留守の時のことでした。そのころ教師がお休みの時は、どなたか他の先生にお願いすることが通常だったのですが、先生は、他の先生に授業を頼むではなく、やんちゃな6年生の生徒に3時間とも自習させたのです。 「子供たちだけで自習できるのかな。」と気になった私は、自分の教室をぬけだして、様子を覗きにいってみました。すると教室の中で20数名の子供たちは無駄話をするわけでなく、真剣に、課題に取り組んでいたのです。先生が担任になって、わずか3か月で、子どもたちは見事に変化し、成長を遂げていたのです。この魔法のような出来事を私は、今も忘れることができません。おそらく、入念な授業準備とともに、子どもたちを信頼しようとした先生と、それに応えようとした子供たちとの関係がしっかり出来上がっていたのでしょう。そんな指導をなさった上之山先生は、私よりずっと年下でしたが、それからの私の教師としての、目標になったのです。
ところで、当時イグアスの絵画のレベルといえば、素人の私の目から見ても相当低く、色鉛筆でぬるというのがほとんどでした。先生は放課後、絵画教室を開いてくださいました。1回目は、3色の水彩絵具(赤、青、黄)を混ぜて、次々に新しい色を作りだすという授業でした。実際に子供たちにさせてみると、子どもたちの目はどんどん輝いていきました。また先生は「自分の好きな写真を持ってきなさい」とおっしゃって、その中の気に入った写真を選ばせて描かせました。子供たちはよく観察してから、丁寧に描いていました。子どもって、「なるほどな」と納得すると、夢中になって取り組みます。そうすると無駄なおしゃべりをしなくなるのですね。そして成果として、その子なりの「華」が出来上がるのですね。
当時のことを思い出すと、今も私の胸はドキドキします。移住者として、夫と共に農業をし子育てをしていた私は、自分のできることを探し求めていました。子育てをしながら、次の自分の人生を求めていました。そして、パラグアイという日本語環境が整っていない地での、子供たちへの日本語指導法を常に模索するようになりました。そのきっかけとなったのが、先生の「授業に対する誠実な姿勢」でした。人の話をじっくり聞いて、よくよく考えてお話ししてくださるその一貫した姿勢に、必ずそこには「華が咲く」結果があらわれました。
ある日のこと、私は、山の中の我が家に先生をご招待しました。当時、我が家では野菜栽培をしていましたが、家族5人で、精いっぱいのもてなしをしました。先生は、夜空いっぱいの星に満足されたようで、一晩泊まっていかれました。先生は、あの星空の下でどんなことを考えていらっしゃったのでしょうね。
あれから20数年経ったのですね。先生が帰国された後、私は日本語学校で本格的に仕事をし、3人の子供たちはそれぞれ学業を終えました。おかげさまで私は、充実した教師生活を終えることができました。そして65歳になった今、家庭の言語環境が理由で日本語の勉強が遅れがちになってしまう子供たちのために、小さな塾を開いています。
上之山先生。先生が、こちらで出会われたアルパを奏でながら、これからも大切なことを伝えていかれることを嬉しく感じます。入念な準備をした誠実な講演で、多くの方を後押しし、素晴らしいきっかけを与えていかれることと思います。ご活躍くださいね。